仙波氷川神社界隈 仙波4丁目
現在の仙波384丁目、大仙波を含めた地域が江戸時代から明治22年3月まで大仙波村であった、『新編武蔵風ヰ記稿』によると、仙波の名称は、
「保元物語ニ仙波七郎高家卜云人見ユ仙波系図ニハ仙波七郎家信トノス又東鑑ニ仙波平太仙波太郎、同次郎、同弥三郎、同左衛門尉ナド云人出タリ、是ソノ在名ヲモッテ氏トセシナリ、大仙波ノ唱ヘハモット後世ノコトト見エン」
とある。
しかし慶安の検地帳には「大仙波村」と記されていることから十七世紀中頃にはすでに成立していたのである。
『北条役帳』には「関弥次郎仙波の内沼野五貫文云々」とあり、河越城付の郷村であることがうかがえる。
また、『入間郡誌』によると、
「大仙波には古墳の跡とおぼしきものあり。その氷川神社境内の如きも現に二、三を存し、その愛宕神社及び浅間神社の社地の如きもまた大なる円墳なりしに似たり」
とあって、愛宕社、浅間社と共に、氷川神社の境内にも2~3基の古墳が存在していたことが記されている。
現在も、氷川の社殿の西南の境内に一基の小円墳が残されている。
この氷川神社は、仙波河岸に通じる街道の北側に接しでおり、大仙波村の村社で、鎮守森が茂り境内として一郭を形成している。社殿の後下(東)には、現在国道16号線が通っており、交通量が多く、騒然としているが、かつては断崖で眺望がよくきく静かな絶佳の地であった。氷川神社の創建は明らかではないが、慶安元年(一六四八)の検地帳に、すでに社地として記載されており、また、境内の大樹からも約三五〇年以前の創立とみなすことができよう。
 なお、保元の乱(一一五六年)から承久の乱(一一九五)まで活躍した仙波氏の「居館跡」については、天台宗の長徳寺の地域一帯と考えられる。

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