| 喜多院 小仙波町一丁目 ○慈恵院 川越の新春の行事は、喜多院の元山大師への初詣に始まる。毎年、正月三が日の初詣約三〇万人の善男善女で賑う。 喜多院の慈恵堂には、慈恵大師良源が、同慈眼堂には慈眼大師天海が祀られており、これを両大師という。このうち、慈恵大師は、正月3日に入滅されたことから元三大師とも呼ばれる。同大師はあるとき、2本の角を立てた鬼の姿となって疫病神を退散させたので、いまでも病魔退散の「角大師」のおふだは人気を呼んでいる。また、三三体の慈恵大師の影像を刷った「豆大師」は盗難除のおふだで、共に元三大師に参詣すると受けることができる。 正月3日の初大師におこなわれる「だるま市」は、明治の中頃から始まり、境内に数百にのぼるだるま屋が軒をつらねて賑わう。 この慈恵堂の建物は、寛永この慈恵堂の建物は、寛永一五年(一六三八)の大火の翌年に建立されたもので、その規模は間口9間、奥行6間の入母屋造りで、桟瓦葺きになっている。東向きで、延暦寺根本中堂日光輪王寺三仏堂などとほぼ同一形式である。一九七五年に解体修理が完成し、県指定文化財になっている。潮音殿とも呼び、通常は大師堂と呼んでいる。○客殿(重要文化財) 慶長一六年(一六一一)家康の命で天海僧正が喜多院の再興を図るが寛永15年(一六三八)の川越大火で、山門と経蔵を残し、他の堂塔伽藍はすべて焼失した。同年一一月、江戸城紅葉山にあった、慶長期の書院造り建築物を移築再建したのが殿・書院・庫裡である。 客殿は無量寿殿とも称し、桁行8間・梁間5間平屋の入母屋造りである。一二畳半・一七畳半・一〇畳の各2室計6室からなっている。一二畳半の1室は上段之間で、床と違棚があり、その張付と襖は、金地に山水の墨絵が、また格天井の各合間に花絵が描かれている。 伝承であるが、家光が誕生した部屋であることから”家光誕生の間”よんでいる。東側の17畳半のI室は仏間になっており、阿弥陀如来の本像ほか3体が安置され、仏間の背部に桐と鳳凰の壁画が描かれており、秀作であるが終戦直後の雨漏りによりいたみが甚しく、おしみても余りあるものがある。 ○書院(重要文化財) 客殿に接する書院は桁行6間・深行5間・平屋の数奇屋造りである。 内部の小さな床と脇床のある8畳の1室は家光の乳母春日局の”化粧の間”と伝えられている。他に床・押入のある8畳(1室)と12畳(2室)があり、その一部に中2階の屋根裏のI室がある。この書院は客殿にくらべて装飾・襖絵・杉戸絵などすべてが簡素で、いかにも女性の居室であることが感じられる瀟洒なつくりである。 ○庫裡(重要文化財) 客殿と書院につづいており、拝観料を払う入口の建物が庫裡である。桁行10間・梁間4間の平屋寄棟造りで、一部が入母屋造りになっている。部屋は15畳・24畳各I室と、6畳4室からなり、小玄関が付設されている。北側の食堂は、桁行4間、梁間3間で、平屋寄棟造りの庫裡に接している。 ○山門(重要文化財) 寛永15年(一六三八)の大火をまぬがれた喜多院最古の建造物で、同9年(一六三三)に建立している。冠木の上の斗栱に”黽・虎”の彫りものがあるが他に飾りがない。四脚門切妻造りの重厚な建物である。山門の北側に接続している幕末期建造の番所は県指定の文化財になっている。斗栱は柱の上の木のこと○鐘楼門(重要文化財) この鐘楼門は、東照宮が慈眼堂の位置にかつて存在し、寛永10年(一六三三)に建造された記録があることから、堂宮の鐘楼門で、寛永一五年の大火を免れた可能性が高い。2層入母屋造りで、両層の中間に縁があり勾欄がめぐっている。前面に竜・背面に朧の木彫が各二体配置されている。これに懸けられた銅鐘には元禄一五年(一七〇二)の銘がある。 ○慈眼堂(重要文化財) この堂は開山堂とも称し、天海僧正が寛永二〇年 二六四三)に他界し、慈眼大師の謚号がおくられた。これから3年後、徳川堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置された。これが慈眼堂である。桁行・梁行共に家光の命により、影3間・平屋宝形造りで南側に1間の庇が付く。宝形造りで宝珠が飾られている。 ○多宝塔(県指定文化財) この多宝塔は、山門前の、日枝神社と白山神社の間に建てられていたが、明治四五年年(一九一二)に道路新設により慈恵堂北側に移築され、さらに昭和五〇年年に解体修理し現在地に完成した。3間の多宝塔で、下屋は方形・上層は宝形造りで、中間に円形の漆喰塗の亀腹がある。塔の上の九輪の相輪上に四・六・八各葉の宝珠がのっている。江戸初期の特徴をよく残している。 |
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