喜多院 小仙波町一丁目
○職人尽絵屏風(重要文化財)
 喜多院の宝物中で、もっとも秀逸にして著名なものは、『紙本着色職入尽絵』屏風である。六曲1双の屏風絵で、各曲に2図が張り付けてあり、計二四図から構成されている。絵の作者は狩野吉信で、職種はI職1図であるが、畳師と桶師は、師の家に赴き出職で慟いており、この図だけはI図3職である。したがって、職種は計二六種になる。なかでも革師、筆師、行膝斷などの職業は、後の幕藩体制が確立されると、穢多の身分に所属され意図的に身分差別をされている。しかし、この絵でみる限り、桃山期にはその様な差別はうかがえず、他の職入達と同格に扱われ、生き生と慟く姿がうかがえる。
 革師の絵は、鹿の皮、熊の皮をなめして、足袋・手袋を作る細工を子持の女性がおこなっており、その家は瓦屋根の立派な2階屋である。
 他の多くの絵にも慟く女性が描かれ、注目に値する。2階建・平屋・瓦葺・茅葺屋根など様々で、都市の人口増加、資力の増大など近世都市の生産者である職入達の活気ある様子がわかる。
○五百羅漢像(市指定文化財)
 川越領北田島村の百姓内田善右衛門、後に出家した志職が天明2年(一七八二)に提案され、広く浄財を募り建立したのが起源であるとれさている。しかし、天明2年にさきだつこと二七年前の安永4年(一七五五)に建立された第一号阿難陀尊者像かおる。この像からちょうど五〇年後の文政8年(一八二五)に阿弥陀如来像が建立され、五百羅漢像は完成をみる。
 総数は五四〇体で、中央正面に釈迦如来、両脇待に文珠・善賢の菩薩、左に阿弥陀如来、右に地蔵菩薩がおり、それをとり囲む様に多くの羅漢像が配置されている。
 像はあまり大きくないが、立像、座像、臥像、女性像が多くの様相に富み、拝観者を楽しませてくれる。また、正面と脇の入口に五百羅漢之碑が一一面建っており、その由来が記されている。
○仙波東照宮(重要文化財)
 喜多院の南隣に仙波東照宮がある。家康は元輪元年(一六一六)に七〇歳で他界し、遺骸を静岡の久能山から日光に移送する同3年三月喜多院に4日間逗留し、天海僧正が導師となって大法要が営まれた。これにより寛永十年に仙波東照宮が建立されるが、同一五年(一六三八)の川越大火で灰燼に帰する。よって江戸城の空宮を解体して、新河岸川の舟運で運び移築し、翌年再建されたのが現在の仙波東照宮である。
 正面の拝殿は平屋入母屋造・幣殿は入母屋造で前面の石の間を経て拝殿と接している。御身体は馬上姿の家康の木像で、円形厨子に納められている。幣殿には鷹絵額(県指定)が掲げてある。金箔塗りの極彩色で、岩槻城主阿部重次の奉献による。重次は家光の後を追い殉死している。拝殿には三六歌仙絵額(重文)が奉納されている。これらの秘宝は年3回例祭に公開される。
石鳥居(重文)には堀田加賀守従四位藤川則盛の銘が刻まれ、造営奉行をつとめたことが窺える。鳥居を抜けると隋身門がある。左右に弓・杖を携えた隋身の像と、後水尾天皇直筆の「東照大権現」の額が掲げられていたが、現在は拝殿にある。
○松平大和守家廟所(市指定文化財)
 喜多院の西南の一部に松平大和家の廟所がある。松平大和家の祖は、徳川家康の次男結城秀康の五男直基で、御家内越前家の家柄で、川越城主として明和4年(一七六七)から慶応2年(一八六六)まで七代一〇〇年にわたり在城し、石高は最高時一七万石に達する。川越で歿くなった五人の廟所である。北側に南面して4基並んでいるは、向かって右から、朝矩とものり直恒なおつね直温なおのぶ斉典なりつねの順で、南側のI基は、直僕なおよしの廟でいずれも大きな五輪塔の墓碑である。それぞれに頌徳碑しようとくひがあり、定紋人りの石門があり石垣がめぐっている。

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