民部稲荷神社 南通町
 川越街道の東側に川越工業高校があり、西側には八幡神社がある。この八幡神社は地元の産土神で境内もやや広く、杉木立が茂り清浄感を加えている。その創建は、酒井忠勝が川越城主(一六二七~三四)であった時に勧請されたといわれいる。
 また境内には民部稲荷神社がある。元禄のころ(一六八八~一七〇四)新富町(旧黒門町)の裏通りにある森の中に「梵心はんしん」という僧侶が住んでいた草庵があり、この森を「梵心山」と呼んでいた。
 この梵心山の民部稲荷については次のような伝説がある。
 寛永年間(一六二四~四四)のころ、八王子の山寺に「新発意しんほ ち 」という小坊主があり、毎晩どこかへ出かけて行くので、住職が心配してたずねると、「実は西の屋敷に住む民部さまのところで、話相手をして親しくなった方がおります」と答えた。住職は西は森の山で、家があるはずはないのにと怪訝に思ったが、
 「そんなに親しくなったのなら、お礼をしたいから、一ぺんこの寺に来ていただきなさい」と申し渡した。
 翌日の夜、民部がお供をつれてやって来た。住職は酒や御馳走を出してもてなしたが、やがて民部のお供と寺男が角力をとることになった。ところがお供の者の力は抜群で、寺男は連敗で一番も勝つことができなかった。
 その翌朝、小坊主が庭掃除をすると、赤や白い毛が一ぱい散らかっていた。 早速その夜、「新発意」が民部をたずねて問いただすと、
 「実体私は人間ではなく、この山に住む狐で、昨夜は吾れを忘れて、楽しませていただきました。しかし、人間と仲良くなったことが仲間に知れ、もうここには住むことができなくなりましたので、河越の梵心山に住家を替えることにしました」と述べて、たちまち姿を消してしまったといわれている。
 これが新富町の民部稲荷の由来で、またの名を 「角力稲荷」ともいかれている。打ち身にご利益があり、今も角力の絵馬が納められている。
 この民部稲荷神社が明治になって八幡神社の境内に移され、現在におよんでいる。 この伝説は『川越素麺』や『三芳野名勝図会』に記されている。

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