仙波河岸 仙波4丁目・岸町一目
 新河岸川の舟運は松平信綱が正保4年(一六四七)に開いたことに始まる。天和3年(一六八三)には新河岸川の最上流の河岸として扇河岸が設けられた。
 明治になると、さらに、扇河岸から川越の問屋街まで運ぶのは遠いので、台地の湧水と小川を開削し、扇河岸から2キロメートル上流の仙波河岸が明治12年に新設される。新設当所は経営を仙波の原伝三の「登茂恵屋」が営業していた。
 やがて、経営は綾部利右ヱ門を代表とする川越町の資産家に移り、明治15年(一八八二)一月に川越水運会社が設立される。
 川越水運会社の創立委員は川越の豪商といわれた次め様な入々であった。
 横田五郎兵衛、黒須喜兵衛、綾部利右衛門、沼田治兵衛、中島久平、石田忠兵衛、小川文七、伊藤長三郎、寺田弥平次、染谷平六、国田福蔵の十名であった。
 開設した会社の資産としては土地5反4畝5歩を十円八九銭で横田準之釛から購入している。
 会社の資産としては土地以外に次に示すものがあった。
 土蔵 4棟、掘立小屋 1棟、2階建居宅 2棟、納屋 3棟、荷揚場 1棟
 船、小巡り船I艘 78石積 綾部利右衛門名儀
 伝馬船 1艘 21石積 綾部利右衛門名儀
 伝馬船 1艘 23石積 綾部利右衛門名儀
 伝馬船 2艘 29行情 綾部刊行術門々日限
沼田治兵衛 名俄
  以上
 船荷は、丸川水運回漕店が扱った。
 支店は上新河岸と日本橋の箱崎町に開設され、経営の実権は次第に綾部利右衛門に移り、回漕店も弟の綾部半次郎が営業することになる。
 仙波河岸の最盛期は明治30~40年代で、乗客を扱うようになる。
 乗客を扱う早船 5艘、荷を扱う伝馬船 5艘 不定期の荷船 10数艘。
 積荷の主なものは下り(川越から東京へ)は穀物類、さつま芋、酒、素麺、木材など。上り(東京から川越へ)は干鰯、ぬか、灰、太物(反物)、砂糖、塩、日常雑貨などであった。
 運賃は荷物1駄15銭、乗客一人十五銭で、乗客については、豆腐、油揚、川魚、弁当を船中で注文することができるが、代金は時価で別にとっていた。
 しかし、大正3年(一九一四)の東上鉄道の開通により、新河岸川舟運はいよいよ窮地に追い込まれる。
 さらに、大正9年の新河岸川改修工事により、川の蛇行を直線にしたため、水流が良くなり浅瀬ができ、船の運行は困難になってきた。昭和5年(一九三〇)3月に通船禁止の県令の通達により、300年にわたる舟運の歴史も終止符を打つことになり、仙波河岸もその命運を閉じる。
 近く川越市によって、仙波河岸を復元して公園化する計画があり、市民の期待は大きいものがある。

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