鳥頭坂 岸町1・2丁目
 川越駅の東口、西口どちらでもよい。池袋方面へ南下すると、7分程で、国道16号と用越街道がぶつかる鳥頭坂交差点に出る。
 その鳥頭坂を川越街道筋に下ったところが岸町2丁目交差点である。
 鳥頭坂は由緒ある坂で、『廻国雑記』には
 「これより武士の館へ羅りける道に、うとう坂といへる所にてよめる。
 うとう坂越えてくるしきゆく末を
安方となくとりの音かも」
 とある。
 文明18年(一四八六) の秋、京都聖護院門跡・道興淮后の巡歴の地であり、急坂を越えてほっとした折に、鳥の声を聞いた景勝地であった。社がある。現在も坂の上には、聖護院の末院である熊野神社がある。
  鳥頭坂と現在記しているが、うとうとは、カモほどの大きさの海鳥で、子を捕えられる時の悲しい鳴声が「うとう」と聞えるところからきている。
 この坂で、明治の夜明けを見ずに、自刃した勤王志士桜国輔の悲劇があった。
 坂戸市紺屋出身で、旧姓を原三郎といった。江戸へ出て、薩摩の志士と交わり、慶応3年(一八六七)12月5日、幕府捕吏が薩摩藩邸を焼打ちしたため、桜国輔らはその囲みを破り郷里に向って逃れるが、永井村(現・所沢市)博徒新平らの変節を怒り殺害する。
 さらに逃れ鳥頭坂に達するが、待ち伏せていた川越藩士に迎撃され重傷を負い、もはやこれまでと自刃した。時に齢い二十五歳であった。大正元年その事蹟が認められ、従五位が賜られている、
 坂の旧道には大樹が茂り、その様子を黙して語らぬが、歴史の変転を偲ばせてくれる。
 またこの坂は、江戸からの川越の入口に当たり、松平信綱の頃、川越街道整備開設の際、人馬引継ぎの宿えきが設けられ、坂も城下防備から「くの字形」にかなり折れ曲っていたという。
 岸町は、川越街道を中心に、東西に月形に広がり、東上線より束側か1丁目、川越街道から所沢街道方面の西側が2丁目、3丁目。近年住宅地として発展し、周辺に流れる新河岸用、不老川は手近な散歩道である。
 不老川は、むかし年不取としふ とりりといって、武蔵野特有の逃げ水の現象で、毎年暮れになると水が地下に消え、越年しなかったという。
熊野神社 岸町2丁目
 鳥頭坂の西側の高台に熊れた境内は、今なお武蔵野の景観をとどめ、その古さを示している。
 社殿は流造りで、これを被った覆殿おほいでんは、瓦葺き土蔵造りで、拝殿は七・五坪の瓦葺きの建物である。当社の創立は不明であるが、岸村の元禄6年(一六九三)の検地図帳(現存)には、神社の特権である年貢が免除されていた故に、「除地」と記されている。
 よって、この頃には、すでにあったことを示している。当社は江戸時代には、産土神うふすながみを祀っており、村人の信仰も厚く、また旅人が鳥頭坂を上ると、休息する場所として親しまれていた。それ故に、明治になると、村社に列せられ明治十一年には、近くの小さな熊野神社と稲荷社を合祀して、熊野神社と称した。
 各地の熊野神社は、道興准后が、修験道の本山である熊野社の勢力を東国に拡張するために、巡歴した結果、創立されたものである。准后は、関白近帝房嗣の第三子で、京都聖護院の第29代の門跡となり、天台修験の総帥として、諸国を巡歴し、文明十八年には、埼玉の地に入り、その時の准后の日記『廻国雑記』によると、狭山市笹井の観音堂、富士見市の十王坊、所沢の福泉坊や、川越市の武士の館、鳥頭坂などを訪れている。このため、聖護院に本拠をもつ本山派が優勢となり、熊野神社が各地に祀られたのである。岸町の熊野神社もこうした由来のもとに地元の人々が建立したものである。

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