| 新河岸川の河岸場 下新河岸 寺尾は広い。東上線新河岸駅と上福岡とのほぼ中間、東上線より東に広がる。 新河岸駅を出て上福岡寄りの踏切りを渡り東へ行くと、もう寺尾の町である。細い路地が畑と民家を縫うように走る。 寺尾は番地だけで丁目がない。道をたずねられてもすぐにはわからない。 時どき狭い道を探しまわる車に出合う。 寺尾の名は、天台宗川越中院の末寺で、平安時代の天長年間、慈覚大師が開いたと伝えられる、寺尾山勝福寺より起こるという。 この勝福寺は、寺尾山蓮乗院が正称である。付近の小字名もこの寺に由来し、「寺側・後原・向原・東原という地名がある。 文化十二年(一八一五)斉藤鶴磯が著わした『武蔵野話』には、勝福寺の絵図が描かれ、 「勝福寺……本尊は阿弥陀仏なり。庭にめずらしき大木の槙あり」 と記されている。現在もこの槙の大木があり、境内を見おろしている。 寺尾には、新河岸川の河岸場があった。『扇河岸由来記』によると、天和3年(一六八三)に、川越藩主松平信輝の江戸屋敷が類焼した時に、再建資材運搬のため扇河岸が、つづいて寺尾河岸、牛子河岸が開設されたのである。 十七世紀前半から開かれていた、上・下新河岸に創設された、扇・寺尾・牛子の各河岸を合わせて扱っていた。 十八世紀に入ると商品流通も活発となり、米・麦・醤油・建築資材・石炭・そうめんなどが、主な江戸への下り荷であった。また江戸から川越への上り荷としては干鰯・砂糖・塩・油・太物(反物)・ぬかなどが主なものであった。 新河岸に近い滝島盛義さん宅は「御用場」といわれ、この一角は、むかし壕に囲まれて、後北条氏の家臣・諏訪右馬亮(寺尾氏)なる武将の居館があったという。 地つづきの城山稲荷には、樹齢八百年のモチの木がそびえ立つ。新緑に萌える寺尾は、すべてが散歩道である。 |
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