月別アーカイブ: 2023年4月

奇妙な形の木

近くの公園の片隅に奇妙な枝をつけた木があります。以前から気になっていたのですが、何となく通りすぎてきましたが、近づいて写真におさめたので紹介します。両手を空に突き上げて、バンザイしているようですが、なぜこんな形になったのか不思議ですね。とても自然の成長の結果こうなったとは思えないのですが、どうなのでしょうか?

ナザレアとルピナス

うすいピンクの花はナザレア、青紫色の花はルピナス。はじめて聞く花の名前なので、ウェブページで検索してみました。ナザレアの方は、日本や台湾などのツツジをもとに、ヨーロッパで交配された園芸品種で、別名セイヨウツツジと呼ばれています。花びらははなやかで美しいのですが、寒さに弱く鉢植えで栽培されることが多いようです。もう一つのルピナスの方は、さまざまな由来をもつことがウェブページで紹介されています。ここにいくつか取り上げます。まずルピナスという花の名は、ラテン語のオオカミを意味するルプス (lupus) という言葉からきているというのです。NHKの朝ドラの主人公のモデルとなっている牧野富太郎博士によると、どんな荒れ地でも育つたくましさがオオカミに通じるから、この名がつけられたのではないかというのです。また「きばなのはうちわまめ」という長々とした和名がつけられいますが、漢字で表記すると「黄花羽団扇」となりますから、ルピナスは豆の仲間なのです。さらに花の様子がフジの花に似ていて、下から咲き上がるために「ノボリフジ」と呼ばれているそうです。

周ののろしと北朝鮮のミサイル

昔のそのまた昔、中国の話です。中国の中央よりやや西よりに「周(しゅう)」という大きな国(領域国家)がありました。当時の周は、幽王という王がおさめていましたが、一時の勢力が弱まり、周に従わない外敵(犬戎=けんじゅうとよばれていた)の侵入に悩まされていました。周では外敵の侵入が予測されると、のろしを焚いて味方の諸侯を呼び集めるのが習慣になっていたようです。幽王には申后(しんこう)というも有力者の娘を正式の妃がいました。しかも跡継ぎの王子も産まれていました。しかし幽王は、申后の娘に代え褒似(ほうじ)という娘を妃にしてしまったのです。申后と幽王の關係が悪くなったのはいうまでもありません。一方褒似は、たいへんな美貌の持ち主だったのですが、決して笑おうちとしない女性でした。ところが外敵の侵入を知らせるのろしによって呼び集めらられた味方の家来のあわてぶりを見て大笑いをしたのです。その様子を見た幽王は、褒似の笑顔を見たいばかりに、何回となく、外敵の侵入に関係なく、のろしを焚いて味方の諸侯を集めたのです。しかしこんなことが長く続くことはありません。いくらのろしを焚いてもだれも集まらなくなったのです。ある本には、褒似は捨てられた子だったということです。褒似が決して笑おうとしなかったのはそんな境遇のせいだったからでしょう。やがて幽王は、犬戎と結んだ申后によって殺されてしまいました。おそらく褒似も幽王と同じ運命をたどったのでしょう。それにしても幽王ののろしが、最近の北朝鮮によるミサイル実験についての国の報道と何か似たものがあるような気がするのですがいかがですか。

 

八重桜が咲いていました

先日近所のお宅にヒガンザクラが咲いているのを紹介しましたが、今度は八重桜が咲いていました。桜シーズンも終わりにさしかかり、早くも青葉をつける桜の木々も見かけたりして、何となく名残おしく感じるこの頃、はなやかな真紅の花びらで八重桜は迎えてくれました。人間の思いとは別に、自然の営みは植物の成長も含め進行するものだとつくづく思います。

三方領知替え

川越生まれで川越育ち、今もなお川越を離れたことが一度もない私としては、あまりうれしくないお話をこれから紹介します。それは、江戸時代の時代も後半に入り、歴代の将軍のなかで、とても長い将軍の座にあった徳川家斉(とくがわいえなり)が、やっと次男の家慶(いえよし)に将軍の座をゆずるも、冷涼な気候が続き、不況・飢饉が日本各地を疲弊させ、米が高騰したため都市を中心に打ちこわしが激しくなった時でした。さらに日本各地で、ロシアやアメリカなどの外国の船が日本の近海に姿を現しはじめたときでもありました。そのころ、松平斉典(まつだいらなりつね)というお殿様で、幕府により江戸湾警備を命じられ、財政的に困ったためでしょうか、たびたび領地に転封されることを幕府に願い出ていました。転封とは、大名が幕府によって治める領地をかえてもらうことです。その時の幕府は、水野忠邦による天保の改革がスタートした時で、斉典は、幕府に願い書をさしだすとともに、自分の要望を通すためでしょうか、将軍職をしりぞいても大御所として政界に影響を及ぼしている家斉の二十四男の斉省(なりさだ)を養子にとして迎え入れるなど働きかけをした結果、幕府により「転封」の命令が川越藩を含む三つの藩に下されました。その命令が「三方領知替え」でした。まず川越藩のお殿様だった松平氏は、山形の庄内藩へ転封されます。庄内藩のお殿様だった酒井氏は、新潟の長岡藩へ転封され、今までの長岡藩のお殿様だった牧野氏は、川越藩にやってくるわけです。転封とは、お殿様が自分の家族はもちろん、自分の家来も引き連れて引っ越しするのですから大変なことです。それなのに自分から転封を申し出るには、江戸湾警備の負担をはじめとする赤字財政赤字を解消しようという思いが大きかったのでしょう。まして、松平氏の転封先の庄内藩は、北前船の寄港地を控えて比較的裕福を約束された土地でした。しかし松平氏の熱い思いは、受け入れ側の庄内藩で転封反対一揆が起こり、やがて長岡藩でも反對の騒動が起こったそうです。川越藩の反応がどうだったのかわかりませんが、三方のうち二方に反対運動がおこり、大きな後ろ盾だった家斉ば死去したこともあって、「三方領知替え」は中止になったということです。