こんにちは、孑度 哩です。収容所は、やはり高い塀で囲まれていました。監視塔にはサーチライトも設置されていました。この後、部屋の中に入りましたが、部屋と部屋をつなぐ通路は狭いトンネル。余談ですが、帰国後、通路の夢をみました。

こんにちは、孑度 哩です。収容所は、やはり高い塀で囲まれていました。監視塔にはサーチライトも設置されていました。この後、部屋の中に入りましたが、部屋と部屋をつなぐ通路は狭いトンネル。余談ですが、帰国後、通路の夢をみました。

こんにちは、孑度 哩です。杉原千畝はビザを書き続けましたが、それでもリトアニアを脱出できなかったユダヤ人が数多くいました。そして容所行きに…。リトアニアには収容所がいくつかあり、今は、当時を語る継ぐ博物館に生まれ変わっています。その一つを訪ねてみました。

こんにちは、孑度 哩です。千畝は、運命の日の光景を手記に綴っています。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった。…6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をうかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」写真は、当時の様子と執務室から撮影した領事館の門です。

(こんにちは、孑度 哩です。)
執務室に入りました。杉原千畝領事が、日本通過ビザを発行し続けた場所です。机も椅子もペンも、当時のまま残されていました。

こんにちは、孑度 哩です。翌日は、もう一つの目的地に向かいました。千畝が勤務した領事館です。カウナスという町に残る領事館跡。静かな住宅地の中にたたずんでいます。門柱には、「希望の門 命のビザ」と刻まれていました。

こんにちは、孑度 哩です。ヴィリニュスに一泊し、ホテルで夕食。「勘」を頼りの注文です。メニューの順番は、ほぼ共通。何とか夕食を済ませることができました。

こんにちは、孑度 哩です。千畝の記念碑からは、中世の面影が残るヴィリニュスの街並みを見ることができます。見晴らしの良いこの地に記念碑があることに、リトアニアの人びとの千畝に対する思いを見て取ることができました。(中央の女性は現地の日本語ガイド。右端の自動車で移動した。)

こんにちは、孑度 哩です。記念碑には、杉原千畝の業績を表す書類が彫り込まれていました。命のビザです。1940年7月から8月、リトアニア在住のユダヤ人にもナチスドイツの魔の手が襲い掛かっていました。そこから逃れるためには、日本を通過するビザが必要です。杉原千畝は、日本政府の訓令を無視して、ユダヤ人にビザを発行し続けたのです。

こんにちは、孑度 哩です。ヴィリニュスの街をしばらく歩いていくと、大きな川に出ました。その川べりに記念碑を発見。いよいよ旅の目的の一つに出会うことができました。杉原千畝の記念碑です。

こんにちは、孑度 哩です。
続いてリトアニアの首都ヴィリニュスの街を観光しました。街角の様子をご紹介します。
