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田んぼに水が入る

夕方の散歩に田んぼに水を送る用水路に水を汲みたげるポンプの所を通り過ぎます。ずいぶんの前の事ですが、我が家の愛犬がそこを立ち寄るとき、暑い夏の日など、水の中に首までつかって喜んだことを思い出したりして、草だけがむなしく生えているのをさびしく思っていました。その日ばかりは、ポンプの水が勢いよく用水路に注ぎ込んでいたので、急に活気づけられました。見ると、ポンプのすぐそばに田んぼに、ホースで用水路の水を注ぎ込まれていました。ここらあたりの田んぼの水は、地下水の水を利用して糸の事です。さらに近くの田では田植え機で作業しているのが見えました。いよいよ田植えがはじまるのかなと思いましたが、手前の田んぼには、すでに田植えをすましていて、苗が順調に伸びているのがわかりました。

風鈴の形の花

ピンクの花は、カンパニュラ、わずかに見えるでしょうか青紫の花はスターチス、左の方に伸びている葉は、レンギョウ。カンパニュラについて調べました。すると、カンパニュラは、ギリシャ神話に、カンパニュールという名の精霊として登場するのです。カンパニュールは、オリンポスの果樹園にある黄金のりんごを守るのを仕事をしていましたが、そのりんごを盗もうとする兵士が現れました。カンパニュールは、必死に鈴を鳴らし、危急を知らせましたが、兵士に殺されてしまいました。それを知った花の女神が彼女(あるいは彼か?)の死を悼み、鐘の形をした花に変えたということです。ギリシャ神話を読んだことがないので、まったくウェブページの借用です。愛らしい色合いと、風鈴のようにふっくらした形から、このような話が生まれのでしょうね。

母の日のプレゼントの花

前面にせり出している葉は、ギボウシ、赤い花は、ごぞんじカーネーション、そして小さい葉の集まりはルスカス。まずギボウシの名前の由来ですが、これはよくわかりません。「ギボウシ」は、擬宝珠(ぎぼうしゅ)のなまった言葉ですが、擬宝珠とは、橋の欄干などの上の飾りのことで、これがこの植物の花のつぼみににていることから名づけられたというのです。しかし植物の「ギボウシ」は12世紀の『堤中納言物語』に見られるが、欄干の「擬宝珠」が見られるのは14世紀の『太平記』に出てくるというのです。またネギの花が「ギボウシュ」や「ギボウシ」と呼ばれていたことから、この植物の若い葉がネギの花に似ているという説があります。。はたしてどちらが真相なのでしょうか。さて今日は、5月の第二日曜日は「母の日」です。日本で行事化されたのは、戦後のことで、母親にカーネーションをプレゼントする風習が定着するのも、その後のことです。「母の日」の起源も、アメリカにあり、アンナ・ジャービスという女性が1908年5月10日、亡き母を偲ぶ会を「母の日」を祝う会として母が教鞭をとっていた教会で行ったのが最初ということです。その際、母が好きだった白いカーネーションを祭壇にささげたのです。カーネーションをささげることも5月の第2日曜を母の日」として祝うこともアメリカ全土にひろがりました。最初はアンナ・ジャービスに習って白いカーネーションを贈ったようですが、アンナの場合、南北戦争で傷ついた人たちを数多く救済し、なおかつ多くの子を育てたという亡き母に感謝する意味で白いカーネーションを贈ったことやカーネーションの花言葉が「尊敬、純潔の愛、私の愛情は生きている」ということから、赤いカーネーションを贈ることが一般的になったようです。ただし必ずしも「赤いカーネーションでなくては」というきまりはないということです。

水彩画入門

水彩画入門──あるいは、すでにデジタルとは言え、水彩画ソフトで絵を描いたことがあるので水彩画再入門というべきかもしれません。昨年の暮れのこと、あらためてアナログ版の水彩画に挑戦しようと思い立ち、市内の文具店に水彩画の道具を買いにいきました。その内訳は、三本の筆、水入れ、パレット、絵の具12色セット、ビニール製のケース、スケッチブック。とりあえずこれだけあればすぐに取り組めると考えたのですが、なかなか手につかず、どうにか形にできたのがこの2作でした。言い訳を探してみると3つほど、障害が見つかりました。一つ目は、12色あれば、足りない色は今ある絵の具を混ぜ合わせればどうにかなると思ったのが間違え。色の混ぜ合わせが思ったようにできないのです。2つ目の障害は、題材が絵にしたいという題材がみつからないということです。犬の散歩がなくなり、自由に歩けるから、題材を見つけるには苦労しないという考えは大間違いでした。実際には、犬の散歩で通ったコースをなぞらいて散歩しているので、新しい題材にぶつかることがないのです。3つ目の障害は、致命的かもしれませんが、思うように描けないためどんどん厚塗りになってしまって水彩画の良さからかけ離れてしまうことです。こんな障害はもちろん克服できていないのですが、やっと形になったので紹介させていただきます。

不幸中の幸い

不幸中の幸いと言うべきでしょうか、今から思い起こすとぞっとさせられます。もうすぐ一週間になりますが、一人でぼんやり散歩していると、停止中とはいえ、大型トラックに激突して、仰向けに地面にたたきつけられたのです。朝の散歩で立ち寄る神社の境内を抜け、いつものように道の左側に沿って歩きはじめた矢先のことです。工事用の資材を運び待機中のトラックが二台止まっていたのです。そのうちの一台目に自分からぶつかったのですから、だれも責める訳にはいきません。最近下を向いて歩いているため、道路上の建造物に接触しそうになり、はっとさせられることが何度かありました。よくよく気つければよかったのですが、ついにこんなことが起こってしまったのです。地面にたたきつけられたさい、臀部と頭(後頭部)を打ったので、病院に行き調べてもらいました。幸いにも異常は見つかりませんでした。本当に初歩的な不注意が事故につながらないでよかったです。その後打ち身の痛みもうすらいで日常生活も少しずつ取り戻してきました。

奇妙な形の木

近くの公園の片隅に奇妙な枝をつけた木があります。以前から気になっていたのですが、何となく通りすぎてきましたが、近づいて写真におさめたので紹介します。両手を空に突き上げて、バンザイしているようですが、なぜこんな形になったのか不思議ですね。とても自然の成長の結果こうなったとは思えないのですが、どうなのでしょうか?

ナザレアとルピナス

うすいピンクの花はナザレア、青紫色の花はルピナス。はじめて聞く花の名前なので、ウェブページで検索してみました。ナザレアの方は、日本や台湾などのツツジをもとに、ヨーロッパで交配された園芸品種で、別名セイヨウツツジと呼ばれています。花びらははなやかで美しいのですが、寒さに弱く鉢植えで栽培されることが多いようです。もう一つのルピナスの方は、さまざまな由来をもつことがウェブページで紹介されています。ここにいくつか取り上げます。まずルピナスという花の名は、ラテン語のオオカミを意味するルプス (lupus) という言葉からきているというのです。NHKの朝ドラの主人公のモデルとなっている牧野富太郎博士によると、どんな荒れ地でも育つたくましさがオオカミに通じるから、この名がつけられたのではないかというのです。また「きばなのはうちわまめ」という長々とした和名がつけられいますが、漢字で表記すると「黄花羽団扇」となりますから、ルピナスは豆の仲間なのです。さらに花の様子がフジの花に似ていて、下から咲き上がるために「ノボリフジ」と呼ばれているそうです。

周ののろしと北朝鮮のミサイル

昔のそのまた昔、中国の話です。中国の中央よりやや西よりに「周(しゅう)」という大きな国(領域国家)がありました。当時の周は、幽王という王がおさめていましたが、一時の勢力が弱まり、周に従わない外敵(犬戎=けんじゅうとよばれていた)の侵入に悩まされていました。周では外敵の侵入が予測されると、のろしを焚いて味方の諸侯を呼び集めるのが習慣になっていたようです。幽王には申后(しんこう)というも有力者の娘を正式の妃がいました。しかも跡継ぎの王子も産まれていました。しかし幽王は、申后の娘に代え褒似(ほうじ)という娘を妃にしてしまったのです。申后と幽王の關係が悪くなったのはいうまでもありません。一方褒似は、たいへんな美貌の持ち主だったのですが、決して笑おうちとしない女性でした。ところが外敵の侵入を知らせるのろしによって呼び集めらられた味方の家来のあわてぶりを見て大笑いをしたのです。その様子を見た幽王は、褒似の笑顔を見たいばかりに、何回となく、外敵の侵入に関係なく、のろしを焚いて味方の諸侯を集めたのです。しかしこんなことが長く続くことはありません。いくらのろしを焚いてもだれも集まらなくなったのです。ある本には、褒似は捨てられた子だったということです。褒似が決して笑おうとしなかったのはそんな境遇のせいだったからでしょう。やがて幽王は、犬戎と結んだ申后によって殺されてしまいました。おそらく褒似も幽王と同じ運命をたどったのでしょう。それにしても幽王ののろしが、最近の北朝鮮によるミサイル実験についての国の報道と何か似たものがあるような気がするのですがいかがですか。

 

八重桜が咲いていました

先日近所のお宅にヒガンザクラが咲いているのを紹介しましたが、今度は八重桜が咲いていました。桜シーズンも終わりにさしかかり、早くも青葉をつける桜の木々も見かけたりして、何となく名残おしく感じるこの頃、はなやかな真紅の花びらで八重桜は迎えてくれました。人間の思いとは別に、自然の営みは植物の成長も含め進行するものだとつくづく思います。

三方領知替え

川越生まれで川越育ち、今もなお川越を離れたことが一度もない私としては、あまりうれしくないお話をこれから紹介します。それは、江戸時代の時代も後半に入り、歴代の将軍のなかで、とても長い将軍の座にあった徳川家斉(とくがわいえなり)が、やっと次男の家慶(いえよし)に将軍の座をゆずるも、冷涼な気候が続き、不況・飢饉が日本各地を疲弊させ、米が高騰したため都市を中心に打ちこわしが激しくなった時でした。さらに日本各地で、ロシアやアメリカなどの外国の船が日本の近海に姿を現しはじめたときでもありました。そのころ、松平斉典(まつだいらなりつね)というお殿様で、幕府により江戸湾警備を命じられ、財政的に困ったためでしょうか、たびたび領地に転封されることを幕府に願い出ていました。転封とは、大名が幕府によって治める領地をかえてもらうことです。その時の幕府は、水野忠邦による天保の改革がスタートした時で、斉典は、幕府に願い書をさしだすとともに、自分の要望を通すためでしょうか、将軍職をしりぞいても大御所として政界に影響を及ぼしている家斉の二十四男の斉省(なりさだ)を養子にとして迎え入れるなど働きかけをした結果、幕府により「転封」の命令が川越藩を含む三つの藩に下されました。その命令が「三方領知替え」でした。まず川越藩のお殿様だった松平氏は、山形の庄内藩へ転封されます。庄内藩のお殿様だった酒井氏は、新潟の長岡藩へ転封され、今までの長岡藩のお殿様だった牧野氏は、川越藩にやってくるわけです。転封とは、お殿様が自分の家族はもちろん、自分の家来も引き連れて引っ越しするのですから大変なことです。それなのに自分から転封を申し出るには、江戸湾警備の負担をはじめとする赤字財政赤字を解消しようという思いが大きかったのでしょう。まして、松平氏の転封先の庄内藩は、北前船の寄港地を控えて比較的裕福を約束された土地でした。しかし松平氏の熱い思いは、受け入れ側の庄内藩で転封反対一揆が起こり、やがて長岡藩でも反對の騒動が起こったそうです。川越藩の反応がどうだったのかわかりませんが、三方のうち二方に反対運動がおこり、大きな後ろ盾だった家斉ば死去したこともあって、「三方領知替え」は中止になったということです。