「町の声、人の声」カテゴリーアーカイブ

「らんまん」製作者に感謝

NHKの連続テレビ小説「らんまん」も、今週が最終週です。植物学者牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎の生涯を江戸末期から大正の関東大震災の激動の時代を背景に描かれてきました。多彩な出演者・主題曲・語り手など話題が多い作品にしあがっていますが、一番印象に残っているのが、時代を象徴する様々な事柄が時々におりこめられてきたことです。まず最初の頃、万太郎の故郷高知県で起こさった自由民権運動でした。ドラマでは主人公が運動に関わった疑いで、囚われの身になりました。植民治下の台湾に派遣された主人公が現地で發塤した新種の植物名を台湾ちなんだ名前にしょうとした万太郎に対して、台湾を統治している日本語になじんだものにしろという横やりが上から入ります。さらに国が推し進める神社の合祀令に対して、神社の森に存在する植物を守るために自分の職も賭ける主人公のの姿もありました。そしてつい最近描かれた関東大震災直後の事件として、万太郎の子供が、ある新聞記事を見入り憤慨する場面がありました。その新聞記事というのは「大杉栄・内縁の妻伊藤野枝・甥の6歳の橘宗一が憲兵寿恵子隊に連れ去らわれ殺害された」という内容でした。もちろん植物に対し熱情をささげた万太郎と、万太郎を蔭になり(あるいは日向になり)支えた寿恵子を主軸に据えたドラマの展開だったことは言うまでありませんが、物語の節目に登場した様々な事柄を登場させたことが、いままでのNHKの朝ドラも例の大河ドラマにもなかったことなので、「らんまん」製作者に感謝します。

 

終戦記念日で思うこと

今年も終戦記念日、8月15日がやってきました。今年は78年目を迎えるということですが、年々、平和を希求する気運が薄らいできているように感じるのは私だけでしょうか。テレビでも映画でも、この時期に合わせて、戦争に関する番組や映画を見せてくれますが、近代日本が経験した戦争の中でもアメリカ合衆国を主要な敵国として戦わされた太平洋戦争の、戦局が極度に悪化し、しかも敗戦濃厚になった時期のものを取り上げているように思います。沖縄戦、東京大空襲、広島・長崎における被爆、ソ連による満州への進攻等々。戦争の悲惨さを伝えるには十分といえますが、戦争の実相を伝えるには、なぜ戦争に至ったのか、日本軍が優勢にあった時に、何があたのか、ほとんど触れられていないのでしょう。近代日本が唯一負けた戦争の最後の局面だけほ取り上げただけなのは、いかにも歯がゆい思いがします。

入管法の改正で思うこと

入管法(出入国管理及び難民認定法の略)は先ごろ終わった国会で改正されました。入管法は戦後まもなく交付され、何回か改正されたのですが、2021年廃案された内容が今回の改正に盛り込まれました。その内容というのは、難民認定の申請は二回まで、それ以降は、強制退去の対象となるというものです。難民認定の基準がどんなものか知りませんが、いかにも難民申請者に背を向けた冷たい法という感じがするのですが、いかがですか。こんな国の姿勢と対照的なできごとが江戸時代の末期にあったので紹介したいと思います。時は、嘉永七年(1854年)11月、すでに前年度ペリー艦隊が浦賀に訪れ、長い鎖国の状態から日本が開国に向かって進んでいるときのことです。どういう訳か、この頃大地震が相次いで発生し、そのうちの一つが今の神奈川県や伊豆地方を襲った大地震は、津波を被害をもたらすものでした。ちょうどロシア・ロマノフ王朝の使節として日本にやってきていたプチャーチン以下五百人が乗船する軍艦ティアナ号が下田湾に停泊中でした。津波は下田町一帯を襲い、下田町の民家はほぼ全滅し、ディアナ号の船底は大破してしまいました。プチャーチンはディアナ号を修理すべく、伊豆半島の西側の戸田(へだ)に向かわせましたが、一二月二日に沈没してしまいました。酷寒の海で溺死の危機に瀕したロシア人水兵五〇〇名を救ったのは、駿河湾北岸の村人たちでした。 以下わずらわしいですが引用させていたただきます。──ディアナ号のマホフ司祭はその手記の中で、「早朝から千人もの日本の男女が「浜辺に押しかけて来」、救助にたずさわったことを、「この目が信じられぬほどの出来事だった」とし、「何人かの日本人が目の前で上衣を脱ぎ、私たちの仲間のすっかり冷えこんで震えている水兵たちにあたえたのは驚くべきことであった」と記している。感激した司祭は、「善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! この善男善女に永遠に幸あれ」と記すのであるが、民衆の世界においては、救いをもとめる者へは手をさしのべるという人間的な連帯の感情が息づいており、かれらにとっては、遭難船や漂流民の救助すら否定する鎖国が有害無益な制度であったことを、この事件はよくしめしている。──なおディアナ号の修理は断念したらしく、幕府は新たに戸田港の南岸に造船所をつくり、そこでロシア人の技術者の指揮の下、周辺の土地から船大工や人夫が集められ西洋型帆船を建造することを許しました(翌年春完成)。今度の入管法の改正で日本人の外国の人に対する意識が一世紀以上の昔の人に比べて進んでいないということを思わずにはいられません。

周ののろしと北朝鮮のミサイル

昔のそのまた昔、中国の話です。中国の中央よりやや西よりに「周(しゅう)」という大きな国(領域国家)がありました。当時の周は、幽王という王がおさめていましたが、一時の勢力が弱まり、周に従わない外敵(犬戎=けんじゅうとよばれていた)の侵入に悩まされていました。周では外敵の侵入が予測されると、のろしを焚いて味方の諸侯を呼び集めるのが習慣になっていたようです。幽王には申后(しんこう)というも有力者の娘を正式の妃がいました。しかも跡継ぎの王子も産まれていました。しかし幽王は、申后の娘に代え褒似(ほうじ)という娘を妃にしてしまったのです。申后と幽王の關係が悪くなったのはいうまでもありません。一方褒似は、たいへんな美貌の持ち主だったのですが、決して笑おうちとしない女性でした。ところが外敵の侵入を知らせるのろしによって呼び集めらられた味方の家来のあわてぶりを見て大笑いをしたのです。その様子を見た幽王は、褒似の笑顔を見たいばかりに、何回となく、外敵の侵入に関係なく、のろしを焚いて味方の諸侯を集めたのです。しかしこんなことが長く続くことはありません。いくらのろしを焚いてもだれも集まらなくなったのです。ある本には、褒似は捨てられた子だったということです。褒似が決して笑おうとしなかったのはそんな境遇のせいだったからでしょう。やがて幽王は、犬戎と結んだ申后によって殺されてしまいました。おそらく褒似も幽王と同じ運命をたどったのでしょう。それにしても幽王ののろしが、最近の北朝鮮によるミサイル実験についての国の報道と何か似たものがあるような気がするのですがいかがですか。

 

三方領知替え

川越生まれで川越育ち、今もなお川越を離れたことが一度もない私としては、あまりうれしくないお話をこれから紹介します。それは、江戸時代の時代も後半に入り、歴代の将軍のなかで、とても長い将軍の座にあった徳川家斉(とくがわいえなり)が、やっと次男の家慶(いえよし)に将軍の座をゆずるも、冷涼な気候が続き、不況・飢饉が日本各地を疲弊させ、米が高騰したため都市を中心に打ちこわしが激しくなった時でした。さらに日本各地で、ロシアやアメリカなどの外国の船が日本の近海に姿を現しはじめたときでもありました。そのころ、松平斉典(まつだいらなりつね)というお殿様で、幕府により江戸湾警備を命じられ、財政的に困ったためでしょうか、たびたび領地に転封されることを幕府に願い出ていました。転封とは、大名が幕府によって治める領地をかえてもらうことです。その時の幕府は、水野忠邦による天保の改革がスタートした時で、斉典は、幕府に願い書をさしだすとともに、自分の要望を通すためでしょうか、将軍職をしりぞいても大御所として政界に影響を及ぼしている家斉の二十四男の斉省(なりさだ)を養子にとして迎え入れるなど働きかけをした結果、幕府により「転封」の命令が川越藩を含む三つの藩に下されました。その命令が「三方領知替え」でした。まず川越藩のお殿様だった松平氏は、山形の庄内藩へ転封されます。庄内藩のお殿様だった酒井氏は、新潟の長岡藩へ転封され、今までの長岡藩のお殿様だった牧野氏は、川越藩にやってくるわけです。転封とは、お殿様が自分の家族はもちろん、自分の家来も引き連れて引っ越しするのですから大変なことです。それなのに自分から転封を申し出るには、江戸湾警備の負担をはじめとする赤字財政赤字を解消しようという思いが大きかったのでしょう。まして、松平氏の転封先の庄内藩は、北前船の寄港地を控えて比較的裕福を約束された土地でした。しかし松平氏の熱い思いは、受け入れ側の庄内藩で転封反対一揆が起こり、やがて長岡藩でも反對の騒動が起こったそうです。川越藩の反応がどうだったのかわかりませんが、三方のうち二方に反対運動がおこり、大きな後ろ盾だった家斉ば死去したこともあって、「三方領知替え」は中止になったということです。